信頼関係は築きは長き崩壊は一瞬に。
以前、私はある訪問看護師さんをとても信頼していました。その方はをある訪問看護会社を辞めたあと、新しい訪問看護会社へ移籍し、私もその信頼感からその方についていく形で、今回記述する訪問看護事業所と契約した。
しかし、関係性は少しずつ変わっていきました。特に最愛の母が亡くなった後、言葉にトゲを感じるようになり、精神的にも少しずつ苦しさが積み重なっていった。私が「共感」や「傾聴」を重視して欲しいとお願いした際、「それなら傾聴ボランティアと変わらない」「AIで充分」といった発言が返ってきた時は、正直、言葉を失った。
また、私が主催するサークルに参加していた元メンバーとのトラブルについても、この訪問看護師さんはくしくも担当は同じ担当であった。その元メンバーが、あるトラブル後に「オープンチャットに戻りたいなら窓口を開けておく」と言ってくれたのですが、私は丁寧に、低姿勢で「オープンチャットが少し苦手で…でもその言葉自体はすごく嬉しかったです」と断ったのだ。しかし後日、その訪看から「相手は殺すような勢いで怒っていた」と伝えられ、大きなショックを受けた。
さらに、その人は「オープンチャット内であなたを庇っていたのだから、恩を感じるべきだ」といった発言もしており、関係のバランスに違和感を覚えました。オープンチャット内で僕を否定していた事、それを庇っていた事、それに対して恩を感じないのかという事を僕に伝えるメリットはあるのだろうか?
その元メンバーは「男は一度言ったことは守らないといけない」として、結果的に私の主催するサークルへの出戻りを拒否した。
それなのに、私がやんわり断ったことで激怒されたこと、そしてその怒りが間接的に私に伝えられたことには、深い疑問が残る。
また「相手にやってあげたという言葉は、相手にとっては頼んでいないこと、知らないこと」と言いながら、私が傾聴、共感の姿勢でやってくれないと担当を変えざるおえなくなると伝えた際、亡くなった母を引き合いに出された。「今のお母さんが見たらどう思う?」と問われたので母の性格なら「あんたがつらいなら訪看を変えてもいいんじゃない」というと思うと伝えたら、姉はどう言ってるかと問われたので、同じ答えを返した。それで返ってきた言葉が、「軽いな、今までどんだけやってあげたと思ってんだ。」
笑える矛盾だ。自分で僕には都合の良い事をいい、自分がやってあげたと言い放つ。
私はこうした経緯をふまえて、訪問看護ステーションに対し、正式な謝罪を依頼した。最初は「本人と意見が食い違っており、本人に謝らせるとまた傷つけてしまうかもしれない」として、責任者の謝罪で勘弁してほしいという回答であった。
私はそれでも一度は納得しようとした。だがやはりどうしても許せる事が出来ずしかし後日、代表または責任者の同席のうえで謝罪してもらい、録音を取らせていただくという条件で改めてお願いしたところ、「金曜日までに返事します」と言われたものの、その日の夕方になっても何の連絡もなく、結局私の方から電話をして、ようやく「それは対応できない」と伝えられた。
私が求めたのは責任追及ではなく、「心が通う対話」た。だが、そうした当たり前の願いが届かないという現実に、深い悲しみと虚しさを感じた。信頼は築きは長く、崩壊は一瞬に。私の経験談をブログとしてここに残していく。
0コメント